1.書くということ(ご挨拶を含めて)
私は、大学時代にアメリカ現代詩のゼミに所属していた。毎週1回のゼミではWilliam Carlos Williams(詩人)のAmerican Grainというエッセイの解釈を行っていたが、毎年、春と夏にあるゼミ合宿では、3年生は好きな詩人の詩の解釈をグループで発表し、4年生は卒論で取り扱う詩人の詩の解釈や、卒論のテーマに基づいた発表を行ったりをしていた。
合宿生活の大半は上記のような発表が占めるわけだが、毎夕食後開かれる「自作の詩の発表会」は、格別の面白さがあった。この発表会はさまざまな形をとって行われた。1人ずつが、自分の書いた詩を朗読し、他の参加者がそれに点数をつけるトーナメント戦で行われるものもあれば、匿名で詩を提出し、作者とはまったく関係のない人物がその詩を朗読して、他の参加者がコメントする、というものもあった。
そのゼミに所属していた私も当然、詩の作者となることがあった。自分の書いた詩を他の誰かが朗読し、また他の誰かにコテンパンに批判されることもあれば、トーナメント戦の準決勝まで進んでこともあった。
私は現在、金融機関で法律に関する仕事をしている。今の会社の前は、同じく金融機関で、窓口のお姉さんの仕事をしていた。私のキャリアに、詩が紛れ込む余地はまったくない。マーケットを分析したり、客に投資信託を売ったり、新しい法律の解釈をしたりするのに、詩は何の役にも立たない。たとえ金融機関でなかったとしても、履歴書に「専攻:アメリカ現代詩」と書いたり、面接で熱く詩について語ったりしても、誰も採用したいとは思わないだろうし、むしろ、そんなことに現を抜かしている輩に仕事など任せられるのかと、不採用の要因となる可能性すらある。にもかかわらず、私は未だに、詩を書くという活動をひっそりと続けており、結婚する友達に詩を書いて送ってみたり、自分の生活の中で感じたことを詩にしたためて、ラップトップの”masterpiece”というフォルダに溜め込んでみたりしているのである。
詩は私にとっては感性の記録である。環境が変わったり、落ち込んだり、恋をしたり、特に何もなかったとしても私の感性に訴える何かが突然やってきて、衝動的にラップトップを開かせる。”masterpiece”
フォルダの中には、その時々に綴られた私の感性の切れ端が時系列に並び、静かに次の一編を待っている。
本来は、ここに詩を書いて、私の稚拙な表現力への挑戦を試みる予定だったが、詩という形態をとった途端、それはあまりにも不可解で、一部R指定となりそうな危険性すら孕んでいるのでエッセイという形で書かせていただくことにした。とはいうものの、面白いのができたらたまに載せさせていただくこともあるであろう。はっきりって、大半はソフトボールとは何の関係もない内容になるが、ご容赦いただきたい。チームの中に、たまたま「書く」ということに執着している人間が1人いて、HPにそれを掲載させていただけるありがたい境遇に置かれているのだとご理解いただければ、なお光栄である。
とりあえず、第1回なので、なぜ私がここで書いているか、という説明を含めつつ、ご挨拶とさせていただきたい。この段階で、どのくらいの方がこれを読まれるのか、さっぱり見当がつかないが、つい読んでしまい、時間をつぶしてしまったそこのあなた、リンクをクリックしてしまったのは事故だったということにしておこう。また事故ってしまうも、二度と事故を起こさないよう細心の注意を払うも、皆さんの判断にお任せすることにする。
そして、私は皆さんの判断とはかけ離れたところで、またここに現れ、何かを残していくであろう。「もうやめてくれ!」と言われるまではね。
(今日のBGM:”With
a little help from my friends” -Joe Cocker)
Ciao.
6月のある日曜日に。
Nozomi